南極観測60年_写真展

-定点観測者としての通信社-

写真展開催にあたって

経済白書が「もはや戦後ではない」と書いたのは、終戦から11年たった1956年でした。その年11月に第1次南極観測隊は観測船「宗谷」で東京・晴海を出港、翌57年1月に南極に到着し、上陸地点を「昭和基地」と命名しました。このニュースは国民に元気を与えてくれました。当時、子供心にも強い印象が残っています。


あれから60年余。観測隊はすでに59次に及びます。観測船も「宗谷」から「ふじ」「しらせ」、新「しらせ」と4代目になりました。写真展では、この間の南極観測の歴史を ①「挑戦」基地開設から極点到達まで ②「拠点」観測船と観測基地 ③「生活」隊員たちの一年 ④「自然」大地と天空 ⑤「生物」極限で生きる ⑥「観測」過去と未来への窓―の6章で構成し、125枚の写真で振り返っています。


この中には、第3次観測隊の隊員がクマかと見まがう大きなイヌを抱えた写真があります。これが無人の昭和基地で1年間生き抜いた樺太犬のタロとジロ。この話はのちに映画『南極物語』になりましたが、写真は今見ても感動を覚えずにはいられません。また、サスツルギと呼ばれる雪面模様、太陽が緑や青に変色するグリーンフラッシュ現象、お湯が一瞬にして氷結する「お湯花火」などは芸術的ともいえます。


今年1月、冒険家、荻田泰永さんが無補給単独歩行で南極点に到達しました。日本人初の快挙です。南極に関心が向いたこの時期に、日本の南極観測の歩みを写真展として開催できたことは何かのご縁かもしれません。ぜひ多くの人に見ていただきたいと思います。


今回の写真展の企画、設営に当たっては共同通信社に全面的なご協力をいただいたほか、国立極地研究所の協力を仰ぎました。ここに深く感謝申し上げます。


理事長ph


公益財団法人 新聞通信調査会 
理事長 西沢 豊 

[第1章 ―1 基地開設]
  • 「宗谷」、いざ南極へ
  • 氷山に遭遇
  • 南極に到達
  • 樺太犬も活躍
  • オングル島で測量
  • 昭和基地と命名
  • 輸送に向け荷降ろし
  • 「昭和街道」を行く
  • パドルに落ち込む
  • クラックに架橋
  • 悪天候のなかの炊事
  • 基地建設に着手
  • プレハブ建築の元祖
  • 1次越冬隊の11人
  • 「宗谷」を見送る1次越冬隊
  • 救出に駆けつけたオビ号
  • オビ号の先導で危機脱出
[第1章 ―2 第2次観測隊]
  • 氷海で漂流の「宗谷」
  • 1年ぶりの故国の使者
[第1章 ―3 第3次観測隊]
  • 「宗谷」、三たび南極に
  • 生きていたタロとジロ
  • 海氷の切り出し
  • 「宗谷」からの荷降ろし
  • 基地の郵便局
  • 3次越冬隊との別れ
  • ブリザード
[第1章 ―4 極点到達]
  • 福島隊員が殉職
  • 「宗谷」、4度目の南極
  • 竹やり戦術
  • 雪上車も奮闘
  • 「ふじ」就航、観測再開
  • ペンギン接近
  • 氷山で淡水確保
  • 「心臓部」を空輸
  • 基地、4年ぶりに再開
  • 憩いの昼食時
  • 「ふじ」初接岸
  • 「ふじ」離岸
  • 南極点到達、白瀬の夢を果たす

手つかずの美しい自然が残る南極。日本はその一角で60年にわたり観測を展開、オゾンホール発見や多量の隕石(いんせき)発見、厚い氷床の掘削による気候変動の解明など世界をリードする成果を挙げてきた。しかし、最初は成功すらおぼつかない「未知への挑戦」だった。

地球規模の科学調査・国際地球観測年(IGY)の実施が1957~58年と決まり、日本が米国やソ連(当時)など他11カ国と調整の末、南極で観測を担うことになったのは、前人未到の、厚い氷に阻まれ上陸困難な地だった。東経35度付近のプリンスハラルド海岸。古い航空写真があるだけで、全てが手探りだった。

55年11月に南極観測参加を閣議決定。敗戦から立ち直る途上の日本が、国際協力の舞台に復帰していく機会とあって、新聞社が実施した募金には小学生も応じ、企業も無償協力するなど国民的な後押しの中で準備が急ピッチで進められた。

第1次観測隊は予備観測との位置づけで、56年11月、「宗谷」で東京・晴海を出港した。犬ぞり用の樺太犬も一緒だった。このシーズンは幸運にも海氷の状況が良く、プリンスハラルド海岸沖の定着氷に接岸。57年1月、西オングル島に上陸して日の丸を掲揚し、一帯を「昭和基地」と命名した。実際の建物は東オングル島に建設。11人による越冬が始まった。「宗谷」は帰路、厚い氷に閉じ込められ、ソ連の砕氷艦「オビ号」に救出された。

57年、第2次隊を乗せた「宗谷」は、今度は往路で氷の中、立ち往生した。脱出後、米砕氷艦の救援を受けたが、氷の状態が厳しいため昭和基地に近づけず、小型機で第1次越冬隊を収容するのが精いっぱい。58年2月、観測を断念した。樺太犬15匹は基地に置き去りにせざるを得なかった。

1年後の第3次隊からは輸送を大型ヘリコプターに切り替えて臨んだ。59年1月、「宗谷」から無人の基地に飛んだヘリは2匹の走り回る犬を発見。「タロ」「ジロ」と確認された。この奇跡的生存は世界的なニュースとなり、後に映画化もされた。60年、第4次隊の福島紳隊員がブリザード(雪あらし)の中、行方不明となり、68年に遺体で発見、初の犠牲者となった。

IGYのための臨時的な事業だった観測は、「宗谷」の老朽化などもあって第6次隊での打ち切りが決まり、昭和基地は62年に閉鎖された。その後、恒久的な体制が整備され、新観測船「ふじ」も建造。船の運用は海上保安庁から海上自衛隊に切り替えられ、65年、第7次隊が「ふじ」で日本を出港、観測は4年ぶりに再開された。再開後の目玉の一つが極点旅行で、第9次隊の11人が雪上車に分乗し68年12月、白瀬探検隊以来の悲願だった南極点到達に成功した。

 

1952年 57~58年を国際地球観測年(IGY)とすることが決定
1955年  9月 IGY特別委員会でプリンスハラルド海岸が日本の観測区域に
  11月 南極観測参加を閣議決定
1956年 11月 第1次観測隊が「宗谷」で日本出港
1957年 1月 西オングル島に上陸、一帯を昭和基地と命名
   2月 第1次越冬隊が越冬入り。「宗谷」が帰路、氷に閉じ込められオビ号が救出
1958年  2月 第2次隊、氷の状態が厳しく観測を断念。樺太犬を基地に残し撤退
1959年  1月 第3次隊が昭和基地沖着。タロ、ジロの生存確認
1960年 10月 第4次越冬隊の福島紳隊員が遭難。68年2月、遺体発見
1961年  6月 南極での活動を平和利用目的に限る南極条約が原署名国12カ国で発効
1962年  2月 昭和基地が閉鎖。第6次隊で観測を打ち切り
1965年 11月 観測事業を再開、第7次隊が「ふじ」で日本を出港
1968年 12月 第9次越冬隊が雪上車で南極点到達

[第2章 ―1 初代観測船「宗谷」の時代]
  • 1959年2月の昭和基地
  • 東京湾を航行する初代観測船「宗谷」
[第2章 ―2 2代目観測船「ふじ」の時代]
  • 2代目観測船「ふじ」
  • 「ふじ」からの物資輸送
  • 昭和基地で進む建設
  • 1968年2月の昭和基地
  • 雪に埋まった「みずほ基地」
  • みずほ基地内部のようす
[第2章 ―3 3代目南極観測船「しらせ」の時代]
  • 3代目観測船「しらせ」
  • 南極第3の基地「あすか」の観測棟
  • ドームふじ基地
[第2章 ―4 4代目観測船「しらせ」の時代]
  • 暴風圏を行く「しらせ」
  • 「しらせ」の雪かき
  • 南極海を進む4代目観測船「しらせ」
  • 昭和基地管理棟と最初期の建物
  • 開設60年を迎えた昭和基地
[第2章 ―5 基地のインフラ]
  • 「しらせ」から延びたパイプライン
  • 昭和基地の発電機
  • 南極のゴミ
  • 風力発電装置
  • 昭和基地の太陽光パネル

観測船はこれまでに4隻が代を継ぎ、その大型化とともに基地も拡充、強化されてきた。

初代観測船の「宗谷」(基準排水量2497㌧)は数奇な運命をたどった。商船から旧日本海軍の特務艦となり、魚雷攻撃や空襲を受けながら奇跡的に生き延びた。戦後は兵員引き揚げ船、そして灯台補給船に。1955年、その耐氷構造が着目されて観測船として白羽の矢が立った。改造のためのドック入りは56年3月。突貫作業で改造し、11月の第1次観測隊出発に間に合った。輸送能力に限界があり、昭和基地の当初の建物は4棟。トイレも屋外だった。燃料節約のため夜間は発電機を止め、入浴も月1、2回だったという。

65年就航の「ふじ」は基準排水量5250㌧で「宗谷」の約2倍、輸送能力もアップした。建設資材も多く積めて昭和基地の棟数は一気に増え、循環式トイレも設置。観測機器も充実し、オーロラ観測ロケットの打ち上げに成功、コンピューターも導入された。70年には2番目の拠点として大陸内陸部にみずほ基地ができた。

「しらせ」は連続して厚さ1.5㍍の氷を割って進める世界屈指の砕氷船として83年に就航した。基準排水量は1万㌧を超え、輸送能力も「ふじ」から倍増した。これにより日本の観測網は広域化。85年に隕石(いんせき)探査などの拠点となる「あすか基地」、95年には標高約3800㍍地点に、過去の気候変動などを探るための氷床コア掘削拠点として「ドームふじ基地」が設置された。93年には通信、医療など主要機能を集約した昭和基地の司令塔「管理棟」が完成した。

2003年、「しらせ」後継船の予算化をめぐり、財政難から財務省が難色を示し、南極観測は中断の危機に立たされた。結局、設計費が計上されたが、建造は遅れることになり、08年の第50次隊はオーストラリアの観測船で南極に向かった。

09年、その後継船は先代の名を受け継ぎ2代目「しらせ」(基準排水量1万2500㌧)として就航。汚水浄化処理機能などを備えた「エコシップ」で、船首に散水装置を設けて砕氷性能を高めた。積み荷もコンテナ方式となり、積み降ろしは容易になった。

現在、昭和基地の建物は約70棟。第1次隊で食堂として使われた棟も歴史的記念物として残されている。化石燃料への依存を少しでも減らそうと、太陽光、風力エネルギーも利用している。

 

1956年  3月 「宗谷」の改造作業スタート、10月完工
  11月 「宗谷」が第1次隊を乗せ東京出港
1962年  4月 「宗谷」が第6次隊を乗せ東京帰港。以降、「宗谷」は巡視船に
1965年 11月 「ふじ」が就航、第7次隊を乗せ東京出港
1970年  2月 オーロラ観測ロケット打ち上げ
   7月 みずほ基地開設。現在は閉鎖中
1979年  1月 NHKが世界初の南極からのテレビ生中継
1981年 昭和基地に初めてコンピューター導入
1983年 11月 初代「しらせ」就航、第25次隊を乗せ東京出港
1985年  3月 あすか基地開設。現在は閉鎖中
1993年  2月 昭和基地に管理棟が完成
1995年  2月 ドームふじ基地開設
2004年   昭和基地にインテルサットアンテナ設置。
観測データのリアルタイム送受信とインターネット使用が可能に
2008年 12月 オーストラリアの観測船で第50次隊が同国を出港
2009年 11月 2代目「しらせ」が就航

[第3章 ―1 衣食住]
  • ひげにつらら
  • ロープを伝う隊員
  • 基地の個室
  • 南極料理人
  • “昭和酒場”の夜は更けて
  • 基地の医師
  • 基地の手術室
  • 基地の郵便局
[第3章 ―2 “季節”を彩る]
  • 雪上車の中でクリスマス
  • 南極でバーベキュー
  • 昭和温泉
  • 昭和基地上空に揚がる連だこ
  • ミッドウインター祭のグリーティングカード
  • 次期観測隊を出迎え
  • 基地に響く除夜の鐘
  • 基地の鏡餅
  • 昭和基地の正月
  • 基地開設60年を餅つきで祝う
  • 南極で成人式
  • 越冬交代式
  • 「しらせ」を見送る越冬隊員
  • 帰国の途につく隊員たち

観測隊(夏隊約40人、越冬隊約30人)に選ばれ12月、昭和基地に到着すると、待っているのは工事の毎日だ。南極の夏は短く、停泊した「しらせ」が帰るまでの約2カ月の間、一日も無駄にできない。建物の新設やインフラ整備など作業メニューは多彩。朝、夏期隊員宿舎前でのラジオ体操後、班ごとに現場に散り、セメントづくりにはじまる各工程をこなす。

建設、電気関係のプロは一握りで、ほとんどが研究者や官庁職員といった素人集団。クレーンの操作も調理師だったりして、国内で免許を取得、慣れない作業に当たる。白夜のなか、夕食後の残業も。宿舎は2段ベッド、相部屋だ。基地要員とは別行動でドームふじ基地などで観測を行うチームもいる。

2月1日になると、前年から越冬してきた隊と「越冬交代式」を行い、基地の主役は入れ替わる。宿舎も、基地中心にある管理棟と通路でつながる「居住棟」に移り個室に。床暖房があり、トイレも温水洗浄式だ。管理棟にはバーや、カップ麺が積まれた「ラーメン横丁」もある。

2月半ばになると「しらせ」は夏隊と前年の越冬隊を乗せ帰途に就き、残った隊員の越冬生活が始まる。日が昇らない極夜もある冬、基地の維持管理は大切な仕事だ。医療などそれぞれの担当業務のほか、当直が回ってくると配膳や風呂そうじなど休む間もない。

単調になりがちな越冬生活に花を添えるのが各種の行事。造花による「花見」に氷山を利用した流しそうめんなど、日本の四季に合わせた趣向が凝らされ、隊員のメンタル面の支えとなっている。中でも最大の行事が6月の冬至の日に行われる「ミッドウインター祭」。他国の越冬基地とお祝いメッセージを交換、調理隊員が腕によりをかけて豪華なコース料理をふるまう。この頃になると当初持ち込んだ生野菜は底をついてくるが、基地には水耕栽培室もあり、南極産の野菜が食卓を彩る。

次期隊と交代し、日本に帰るのは翌年3月。ほぼ1年半の「長期出張」が終わる。

女性の観測隊初参加は1987年。初の越冬隊員は97年で、2018年出発の第60次隊では初めて女性が副隊長に決まった。

 

観測隊の日課(夏期) 観測隊の一年
6時半 起床 11月 航空機でオーストラリアへ
6時45分 朝食 「しらせ」でオーストラリア出発
7時45分 体操、安全朝礼 12月 昭和基地到着
8時 作業開始  
10時 中間食 翌年  
12時 昼食 2月 越冬交代式で前隊と交代
13時 作業再開 「しらせ」、夏隊員らを乗せ昭和基地を出発
15時 中間食 6月 ミッドウインター祭
19時 夕食 12月 次期観測隊が「しらせ」で到着
19時45分 ミーティング、入浴、洗濯  
23時 消灯 翌々年  
    2月 越冬交代式で次隊と交代
      「しらせ」で昭和基地を出発
    3月 オーストラリア入港
      航空機で帰国

[第4章 ―1 氷と岩の大地]
  • 白瀬氷河末端の氷壁
  • 南極大陸の山並みと氷山
  • 氷山の誕生
  • 風でできたサスツルギ
  • 座礁した氷山群
  • 氷山のアーチ
[第4章 ―2 大気と天空]
  • お湯花火
  • ハロー現象
  • 幻日(げんじつ)
  • 沈まぬ真夏の太陽
  • グリーンフラッシュ
  • 夕日と蜃気楼(しんきろう)
  • 黄昏(たそがれ)時のサンピラー

日本列島の37倍の広大な大地に広がる圧倒的な量の氷。地球上の淡水の90%が氷として南極に存在している。数千万年かけて南極に蓄積した氷、その土台となる岩の大地には、地球の変動の歴史が刻まれている。

膨大な氷は、地球の気候変動を左右するエネルギーを秘めた塊だ。もし南極の氷が全部解けたら、海面の高さが60㍍も上昇するという。そうなれば、海に近い地球上の大都市は、高層ビルを残してすべて水没し、南太平洋やインド洋の小さな島国は、国土を失うことになる。

また氷が解けた淡水が南極海に流れ込んで海水と混ざり合うと、塩分濃度が薄まり、海水の比重が下がって海流の動きが変わってしまうかもしれない。南極の氷が減っているのか増えているのか、そして今後どうなるのか、現地観測、衛星観測、そしてシミュレーションなどを通じて監視していかなければならない。

一方の大地。ドイツの気象学者アルフレッド・ウェゲナーが大陸移動を唱えてから約100年。地球上の大陸は、離合集散を繰り返し今の配置になったことは高校の教科書にも載っている。しかし、これで動きが止まったわけではない。今から2億年くらい前、南極大陸の隣にくっついていたオーストラリア大陸は、現在年間6㌢のスピードで南極から遠ざかっている。やはりお隣さんであったインドは、もっと速いスピードで南極から離れ、アジア大陸に衝突して世界の屋根ヒマラヤを造った。地質学的時間でみると、地球はけっこう騒がしい。南極の大地は分厚い氷に覆われて、そのわずかな顔しか見せてくれないが、実はかつてお隣さんであった南アメリカ、アフリカ、インド、オーストラリアなどと同じ地質学的遺伝子を隠し持っているのだ。

南極は緯度の関係で太陽高度が低く、そのため地球上では最も寒い場所だ。1983年に旧ソ連のボストーク基地で観測された氷点下89.2度という気温が、地球上で記録された最低気温である。日本の昭和基地は海岸線にあるので、これまでの最低気温は氷点下45.3度だ。

この低温条件のため、空気層の温度差により屈折率の違いで生じる蜃気楼(しんきろう)や、空気中の水蒸気が凍ってレンズの役目を果たすことで太陽の虚像が現れる「幻日(げんじつ)」や「太陽柱」などの現象を見ることができる。また緯度の関係で、12月から2月にかけての夏は太陽が沈むことなく、終日地平線間近を転がるように移動する白夜が続く。そして、5月下旬から7月中旬にかけての冬は、逆に太陽の昇らない極夜が続く。

  • 南極海上のユキドリ
  • 氷から顔を出すウェッデルアザラシ
  • ナンキョクオオトウゾクカモメ
  • エサをせがむアデリーペンギンのひな
  • 基地に現れたアデリーペンギン
  • ペンギンの群れがお出迎え
  • コウテイペンギン

酷寒の地、南極にすむ動物たちは極限の環境で暮らしている。

ここ数年、昭和基地沖では海の氷が分厚く張りつめ、観測船「しらせ」の接近を阻んできた。そのため観測隊は物資輸送に相当な苦労を強いられた。燃料や食糧といった大事な物資が昭和基地に届かないと、観測隊員は越冬に入れない。海の氷の状態は、まさに観測隊にとっては死活問題といっていい。しかしこれは人間だけの問題ではなかったようだ。

南極の主、ペンギンたち。彼らは夏の間わざわざ南極にやって来て卵を産み、ひなを育てる。なるべく海岸に近い陸地に営巣地を作り、親鳥はひなのためにせっせと海に潜って餌をとり、巣に戻ってひなに与える。氷が厚い時、彼らは海氷の上を延々と歩いてようやく氷に覆われていない水面を見つけると、そこから海に飛び込む。そして来た道をまた延々と引き返して巣に戻るのだ。

ところが2016年、ちょっとした異変が起きた。海氷が緩み、大きな水面が広がったおかげで、親鳥は巣の目の前から海に飛びこみ、容易にひなに餌を与えることができた。結果として、ひなの生存率や成育率がそれまでに比べてはるかに高かったことが分かった。

南極の氷の消長がどういうメカニズムで起こるのか、いまだ解明されていない。地球温暖化と関わっているのかもしれないし、別の要因が働いているのかもしれない。いずれにせよ、氷の変動がそこに生息する生き物に大きな影響を及ぼすことは現場の観測で明らかになった。南極というローカルな場所であれば、それはペンギンだけの問題かもしれないが、地球という大きな視点に立つと、それは人類を含めた生物全体に関わる問題かもしれない。

  • 気象観測
  • 生物実験室
  • やまと山脈調査
  • 南極隕石の発見
  • 隕石を採集する観測隊員
  • ロケットによるオーロラ観測
  • 気球によるオーロラ観測
  • オゾンホール
  • 氷雪の中を進む雪上車
  • 氷床コアの掘削
  • 72万年前の氷
  • バイオロギングで生態解明
  • 海の潜水調査
  • 湖の潜水調査
  • 南極の湖のコケボウズ
  • 氷の移動距離観測
  • 氷の厚さの観測
  • 大気レーダー「PANSY(パンジー)」
  • 南極の岩場を行く
  • 地質調査
  • 岩石の観察
  • 史上初の観測
  • 「しらせ」上空のオーロラ

「南極は地球と宇宙をのぞく窓」 。南極観測の目的を端的に表現すると、こうなるだろう。宇宙の片隅に太陽系が生まれ、その中で地球が誕生したのが46億年前。その後のさまざまな変動を経て、いま人類がこの地球に存在している。地球の年齢を1年に例えると、人類が誕生したのはわずか3時間ほど前。人間の一生は0.5秒に過ぎない。その人類が、自分たちを含めた地球や宇宙の生い立ちを探り始めたのが科学の始まりだ。

南極では、地球の過去を保存したモノがたくさん見つかる。いわば、地球のタイムカプセルだ。南極大陸を分厚く覆う氷床には、過去の気候変動の記録、たとえば過去数十万年の気温変化や二酸化炭素濃度などがシームレス(途切れない)なデータとして保存されている。南極氷床で大量に見つかる隕石(いんせき)は、地球という天体を作った原材料だ。そこには地球が誕生する以前の太陽系の情報が秘められている。

そして南極大陸の基盤である岩石には、地球という星ができた後の変動の記録が保存されている。地球の生い立ちは、決して平穏なものではなかった。表面までドロドロに溶けていた時代、逆に赤道までカチンカチンに凍り付いた時代、さらに恐竜絶滅の原因とされる突然の隕石の衝突など。こういったタイムカプセルをひもとくことによって、人類は地球の過去の姿を垣間見ることができる。

地球温暖化に代表される環境変動のメカニズムは一体何なのか。大気中の二酸化炭素濃度は、過去30万年の間、約300ppm以下に抑えられてきたが、2016年には400ppmを超えたことが昭和基地での観測でわかった。地球温暖化はさらに加速するのだろうか。一方で、約2万年続いてきた「間氷期」は終わりに近づき、これから地球は寒冷化していくという見方もある。地球はこれから人類をどこに導こうとしているのだろう。その問いへの答えは、われわれ人類にタイムカプセルを残してくれた南極で見つかるかもしれない。

 

1957年 1月 第1次隊、昭和基地を開設。地球物理、気象、地質の観測・調査を開始
1960年 11月 第4次隊、やまと山脈初調査
1968年9月 〜69年2月 第9次隊、昭和基地—南極点往復
1969年 11月 第10次隊、やまと山脈で隕石発見
1970年  2月 第11次隊、ロケット試射成功。7月みずほ観測拠点開設
1976年  2月 第17次隊、オーロラ観測ロケット「S-310JA1」打ち上げ成功
1980年  2月 第20次隊、やまと山脈で隕石3967個採取。
88年、98年、99年にも約2000個から4000個に及ぶ大量の隕石を同地ほかで発見
1982年  9月 第23次隊、昭和基地で南極上空のオゾン量の急激な減少を観測。オゾンホール発見のきっかけとなる
1984年  8月 第25次隊、みずほ基地で700.63㍍までの氷床中層掘削に成功
1985年  3月 第26次隊、あすか観測拠点開設。地質、地形、地球物理、気象、隕石等の観測・調査を開始
1995年 12月 第37次隊、ドームふじ観測拠点で2500㍍までの氷床掘削に成功
2007年  1月 第48次隊、ドームふじ基地で3035.22㍍までの氷床掘削に成功、72万年前の氷を採取
2008年〜10年   第49〜51次隊、セール・ロンダーネ山地の広域地質調査
2011年  1月 第52次隊、昭和基地で大型大気レーダー「PANSY(パンジー)」建設開始
2015年 10月 第54次隊、大型大気レーダー「PANSY(パンジー)」完成、本格観測開始
2016年12月 〜17年2月 第58次隊、アジアの南極観測未参加国からの若手研究者とともに広域的地質調査
2017年12月 〜18年1月 第59次隊、将来の氷床掘削地点調査開始